自己紹介

プロフィール

ももくりと言います。

現在43歳、2児の父。自営業です。

 

  • 2012年→アルバイト生活から独立。会社を立ち上げ自社倉庫をを建てる
  • 同時期に、家づくりに失敗。建築業界の裏側まで調べつくして、最高の住宅を建てる事を決意。
  • 2015年→新居の工事がスタート。
  • 2016年→新居が完成。
  • 現在→家づくりについてブログで執筆中。

 

家づくりマニアです。

本当にいい家づくりは何かを発信しています。

 

家のスペック

 

・40坪・完全分離の二世帯住宅(5人家族)

・女性一級建築士設計のローコスト高性能住宅

・地域初の地域型住宅グリーン化事業の家・省エネ2030年基準の長期優良住宅

・太陽光発電・オール電化

 

ここがこだわり

 

  • 内外結露しない家
  • 光熱費がかからない家
  • 雨漏りしない家(世界的化学企業マイスター監修)
  • 家事が楽になる設計
  • ローコストで実現

 

3年以上家づりくりに何が必要か学んだ結果、様々な建築関係者と知り合ったおかげでローコストで最強の住宅を建ててもらいました。

 

地域初のスーパー住宅でったので、内覧会に来たのは建築関係者だらけ。

 

ローコストで建てたので、月々の返済6万円と超格安です。

 

これまでの人生(長いです。)

中卒→売れないバンドマン→万年フリーターと、30歳過ぎまで絵に描いたよなダメ人間人生を送ってきました。現在は、人の出会いに恵まれたおかげで、そこそこ幸せに暮らせています。

30過ぎから個人事業で独立。職場も自宅も新築で建て、自由気ままに生活しています。

通勤時間0分の夢がかないました!!

努力が嫌い、仕事が嫌い。家にいるのが大好き。基本ダメ人間です。

住宅の事、仕事や子育てについて、ブログで発信していきたいと思います。ブログ超初心者のなので右も左もわかりませんが、(あわよくば稼げればって思ってますけどね)よろしくお願いします。

ブログを始めて10カ月でアドセンス収入が2万円を超えました!

暇な人は見て下さい。だらだらと長いですが私のストーリーです。

幼少期

今でも覚えているんですが、お客が来るとカーテンにくるまって出てこない。長い時は数時間カーテンの中です。理由は覚えていませんがとにかく人と接するのが嫌いな子どもでした。

唯一の理解者は祖母。(結婚する時に判明したんですけど血がつながってなかった!)
保育園に行ってまいたが、週の半分は祖母と一緒に老人センターで遊んでいました。お菓子いっぱいもらえたのはいい思い出です。

保育園でほぼ不登校児です。

おばあちゃんと母親がケンカしてましたが、今でも覚えているのは、おばあちゃんの「この子は普通の子とは違うから」って言われてました。今でいう発達障害の疑いがあったそう。

そういえば、保育園時代の同級生に会った時に「何もできないから全部面倒見てあげてたんだよ!」って言われましたよ。

まぁ、確かに一日中ひたすらけん玉やったり、貯金箱のお金の出し入れを一日中繰り返したり、ハエを朝まで追いかけてたりと・・・確かに普通じゃなかったかも。

小学生時代

低学年の時はとにかく学校に行きたくなかったです。学校まで2km近くある道を低身長(4歳児なみ)の私が通うのは苦痛でした。その頃から通学が嫌いで、毎朝駄々こねてました。

スポーツは大の苦手。勉強も嫌い。ファミコンは好きで、「忍者ハットリ君」と「メトロイド」は極めた記憶があります。

ズル休みはあたりまえ。そのおかげで、自分の子どもが休みたいと言っても何も言えません・・・。

友達もいなくて、学校が苦痛でした。

ですが、5年生になり私の能力が覚醒したんです!!忘れもしない小学校5年生冬の縄跳び大会。スポーツ音痴だった私が、体育の授業で二重跳びを一回でけ飛ぶことができたんです。それがすごく嬉しくて、一週間猛練習しました。

結果、二重跳びで学年5位、時間飛び(一度も引っかからずに最後の一人になるまで飛びつづける)でなんと学年一位になりました。めっちゃうれしかったですね。今でも鮮明に覚えています。

それからは、マラソン大会でも10位以内、その春に行った塾の春期講習では、私立のお受験コースに受かってしまい(勉強嫌いだから行かなかったけど)とにかくたったの数か月で覚醒しました。自信が付いた事で変わる事ができました。

小学校6年生の夏ごろには、クラスの中心人物に。

当時、宮沢りえ主演の『ぼくらの七日間戦争』で影響されて、クラスのみんなを集めて授業をボイコットもしました。

身長は低くかったですが、スポーツ万能、成績優秀。毎日が本当に楽しかった。

中学生時代

中学では仲の良かった友達とクラスがバラバラになりました。教育員会の人から聞いたんですど、集団ボイコットが県でもかなり問題になったらしく、主要メンバーをバラバラにしたそう。

勉強も嫌いで授業も聞かないで「ぼーっと」してました。

親には毎日のように「勉強しなさい!」「あれはダメ。これはダメ。」うんざり。3年の頃には学校に行きたくなくて、高校には行かないと早々に決めました。

親や先生にはそんな選択肢は許されず受験はしますが、高校はすぐ辞めちゃいました。

中学生時代は女の子友達が多くて、とカラオケ行ったり、恋の相談したり、ファッションにも目覚めて奇抜な格好したり。学校よりもプライベートの遊びが楽しかったです。

高校生と青春時代

先ほども書きましたが高校はすぐ辞めました。やりたくもない勉強をして、毎日満員電車で通わなければならないのか理解できません。「何のために学校にいってるんだろう」って考えてましたね。

関連記事:高校辞めても人生何とかなりますよ。後悔しない中退人生。

親からしてみれば、最悪のダメ息子だったでしょうね。

約10年間の学生生活で楽しかったのは、小学校の2年間程です。友達作り、集団生活が苦手だったんですね。今でも変わりませんが・・・。

学校を辞めてすぐに、仕事をします。アルバイトですが、肉体労働だったので、月に20万円程はもらっていました。

16歳の少年にとっては、大金です。そして、そのほとんどを洋服につぎ込んじゃったんですね。田舎なのでかなり目立っていたと思います。当時はフェミオが流行ってたので、スーパーラヴァーズとかミルクボーイとか着て、ビリビリに破ったパンツを全部安全ピンでつないだりしてましたね。

ギター少年

当時、少女マンガの『天使なんかじゃない』が流行っていて “ 中川ケン ” に似てるって言われ、単純な動機からギターを始めました。

普通ならオシャレ系の音楽をやるかと思うのですが、ギターを持った時に、中学生時代に聞いた“ガンズ・アンド・ローゼズ”の衝撃を思い出してしまいました。そこから80年代のL.Aメタルシーンにはまってしまうという、オシャレとは程遠い過ちを犯します。

そこからメタル、スラッシュメタル、デスメタルともうメタルキングまっしぐらでした。とにかくひたすら引きこもってギターを練習しました。同時に、ニルヴァーナのカート・コバーンが好きだったので、古着スタイルに変貌。

とにかく速く弾きたいだけでした。音楽を聴くことへの興味はなかったかもしれません。以後、10年近くバンド活動をしますが、一番音楽に対して燃えていたのはこのギター小僧の時代だったかも。

大検

気付いたら同級生たちは専門学校や大学へ進学していて。大学かぁ…。中卒だしなぁ。無理だろうなと思いつつ、大検(大学入学資格検定)の予備校に通うことにしましました。

予備校には様々な人がいて本気で大学受験を考えている人もいましたが、遊び感覚で来ている人もたくさん。もれなくその方たちと遊ぶようになりました。

予備校にギター持ちで集合。そのままスタジオ朝までコース。学校にはいってるけど、授業はほとんど出てなくて、たまり場状態でしたね。

大検まで残り2か月を切ったところで、気合いを入れて勉強することにしました。先生に相談したら来年頑張りなさいと言われました。そりゃそうか。

11科目、高校生の基本勉強気合い入れました。
結果は・・・。

 

 

合格!!!!

 

受かっちゃいました。これで満足しちゃって結局大学には行きませんでした。その後、受験勉強しないで、バンド活動に専念しちゃいます。

ダメ人間まっしぐら

バンド活動、たまにバイトみたいな生活が数年続きます。

ちょっとだけ・・・

その頃、妻と出会います。都内に住んでいた彼女の家に転がり込みます。

夢の「ヒモメン」です。そんな私を当時、支えてくれました。

「絶対売れる!」って妙な自信があったんですけどね。今よりも心に余裕があった気がします。ダメダメ生活だったけど楽しかったなぁ。

社会人のスキルとして得たものは、限りなく0に近いです。借金は100万円越えでした。

そんな、荒んだ生活に終わりを告げたのが、「父の危篤」と言う知らせです。まさかの出来事でした。 父とは遊んだ記憶もほとんどないし、会話も少ない方だと思いますが、ものすごいショックでした。当時までの私の人生の中で、一番ショックな出来事でした。

一命は取り留めしたあが、頭蓋骨骨折で脳にも損傷がある状態で、まともに会話をする事が出来ず、見た目以外はまるで違う人間になってしまいました。

私の事を認識できない時もありました。一つの親孝行もできず、私の知っている父親ではなくなりました。そして、バンド生活を終わりにしました。この時27歳でした。

バイトからの就職

中卒で、学歴なし、職歴なしの27歳を雇ってくれる所なんてどこにもなく、唯一雇ってくれたパチンコ屋のバイト生活が始まります。

給料はすべて妻に預けて、バンド時代の借金の清算をしながら、働くことに没頭します。若い二十歳そこそこのアルバイト店員にヘコヘコ頭を下げて働きました。社員さんがやる仕事を残業で手伝い、当時の店長さんにアピールしまくりです。

ある程度借金も返済でき、普通に生活できるようになってきました。そして、妻と籍を入れました。ダメダメな私を文句ひとつ言わず支えてくれました。感謝しています。

父に報告しに行きました。この時は車いすで、一日中外を見ているだけの状態です。しかし、報告をすると「二人だけで話をする」と言い、病院の休憩所に連れて行かれ、

「結婚を認める、幸せにするんだぞ」

と言い、そのまま病室に戻りました。一瞬でしたが私の知っている父親でした。その後はしゃべることもなくただ外をながめていました。これが父との最後の会話だと記憶しています。父は亡くなりました。

初めての正社員も長くは続かず・・・

それからしばらくバイトでがんばっていましたが、ある日社長さんに呼ばれ、「社員でやってみないか?」と声をかけられました。30歳手前にして初めての就職です。

すごく嬉しかった!!やっと普通の人間になれるとこの時は思っていました。

しかし、会社にいいように使わるだけでした。給料は多少増えたけど、残業考えたらバイトの方がよっぽどマシ。

今までは、使われる立場にいたのに、これからは使う立場になります。

バイト歴の長い年下のスタッフからは「生意気になったなぁ」って言われました。

年上の“ボスキャラ女スタッフ”がいて、彼女に気を使わないとスタッフ全員が敵に。バイトにちゃくちゃ気を使っわなくては成り立たない仕事でした。

朝の8時に出勤し帰りは、夜中の1時で週6日。もちろん残業代はありません。

限界でした・・・。

せっかく社員になれたんだからと1年程働きましたが、妻とのすれ違いも多く、自分が何者だかわからなくなり、妻も「東京から出たい」と・・・。

二人とも仕事を辞める事に。

「二人だけで生きていくならそこそこのお金があれば十分に幸せだよね。」

そんな気持ちで東京に別れを告げました。

東京から地元へ

私の地元(そこそこ田舎です)に戻ることにしました。田舎といっても都内まで電車1時間程度。生活に不便を感じる事はありません。

家賃も都内に比べれば激安。ワンルームアパートに2人で生活していたので、初めての広い部屋に感動しました。

妻は越してきて一週間ほどで新しい仕事先を見つけてきました。私はその当時職人に憧れていたので、職業訓練校に通うことにしました。必死に勉強しました。

技術も居残りで練習しました。久々の繰り返し病です。卒業時にはどこでも働けると太鼓判を押されました。

ところが、その後の就職活動は全滅です。

「人生なめている」って言った面接の人もいました。

それから、しばらくは家にいました。30過ぎてプー太郎です。一応就職活動のフリをして家を出ますが、1日中ゲーセンに居ました。

本気で人生どうしよう?と考えました。

人生を変えたヤフオクとの出会い

テレビで「ヤフーオークションでなんでも売れる」みたいな番組を見ました。「牛乳パックが売れる!」驚きました。リサイクルショップでもオークション取引が主流になっていました。

「これなら出来そう!!」と思いましたが、パソコンに触ったこともなく、当時はガラケーです。

とにかくやり方を覚えなくては・・・。

そこで、街の流行ってなさそうなりリサイクルショップに飛び込みで面接をお願いしました。30歳過ぎのおじさんが・・・。

「仕入れや仕組みを教えてほしいので働かせてください!!」

このお店もヤフオクでの販売が主しかも売り上げは、億超え。

「全然儲かっていなそうなのに・・・」なんだか未来が明るくなったような気がします。

 

その時は、無我夢中で働きました。

 

仕入れや相場を勉強しました。

 

ヤフオク出品デビューしました。

 

一年後には古物商許可を取得し、休みの日には“せどり”に出かけました。当時は、わらしべ長者的な発想で生活していました。

『売ったお金でそれよりも良いものを買い、また売る』

ヤフオクの収入が数十万になり、バイトも掛け持ちしていたので生活もそこそこ楽になりました。

生活が楽になると、不思議と子供が欲しいと言う思いが強くなります。妻も同じ考えです。

独立

『子供が産まれる前か』『子供が産まれた後か』個人事業主として独立は悩みましたが、産まれる前に独立する事に。

後から聞いたのですが妻は相当不安だったそう。しかし何も言わずに後押ししてくれました。

子供が産まれる

子どもは、色々な不安をすべて吹き飛ばしてくれました。

こんなに不思議な喜びは今まで味わった事がありません。『無事に生まれてきただけで親孝行』なんて言いますが、その通りなんですね。

当時、アパートの一室に商品をためてヤフオクで売るを繰り返していました。子供が産まれ、アパートは手狭。そこで、一軒家の購入を考えます。妻の収入と合わせれば新築も行けるのではと甘い考えで、何軒か住宅展示場もまわりました。

現実は厳しかったですが、何とか1,500万円位しかローンを組む事ができそうでした。しかし、その予算でできた完成予想図にがっかり・・・。

競売物件や中古も調べましたが、なんか騙されそうです。

そこで、考えたのが事務所と倉庫の建設です。

事務所と商品管理の倉庫を建てることにしました。

稼いで、いずれはこの隣に家を建てる!!そうすれば通勤時間のない理想の家が完成する!!目標を立て頑張る事にしました。

ローンも払ってアパートの家賃も払う事に反対する人もいました。

しかし、同等の広さの事務所の家賃は15万円。ローンなら月々10万円です。

単純に建てた方が安いと判断しました。結果は売り上げは倍になり、現在は事務所の借金もほぼ終わりです。

~現在 理想のマイホーム

父親になってからは、がむしゃらに働くのを辞めました。そもそも働くのが好きではありません。

働くために生きたくはありません。まだ達成できていませんが、生きるために少し働くを目標にしたいです。

「努力しない事を努力する」考えが甘いとよく言われます・・・。

その後、二人目の子供も無事に生まれました。子供たちが自由に遊べる空間が欲しくて、マイホームの建築です。

夢の通気時間0分実現しました!!

30歳過ぎまでバイト生活をしていた私が家を建てられるまでになりました。お金を持っているわけでもありませんが、そこそこの生活ができています。

ちょっと田舎で不自由ない生活の素晴らしさを伝え、バイト生活を脱出したい方や会社を辞めたい方などの手助けを出来たら思いブログを書き始めました。

家に関しては、建築士との出会いや建築業界の裏を知る人との出会いが大きかったです(大手の欠陥住宅のデータも見せてもらいましたよ)。これらに基づいて家をたてました。

家の事については、ブログで書いています。「本当にいい家を建てたい!」と思っている方は、読む価値がありますよ。これからの住宅に必要な情報を書いています。

とても素晴らしい住居が完成しました。構想1年、建築1年の家づくり。家族のための素晴らしい家でです。

少しでも同じような考えの方に、参考にしてもらえればと思います。